すごい人がいるものです。
現在一万二千数百回という頂点に立つ平野次男さんもスーパーマンだが、
一日も欠かさずに三千回というのも、ありえないすごさ!
最終的にはいったい何回に達せられたんでしょうか気になるところです。
18年前の記事ですが、今でも元気にされているのでしょうか。
快汗!!日課は金剛山登頂――松永信男氏(文化)1991/04/16 日本経済新聞 朝刊 36ページより引用
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太平記の忠臣、楠木正成が千早城、赤阪城を築き、鎌倉幕府方をさんざんに打ち破った古
戦場で名高い金剛山。高さ千百二十五メートル、大阪府と奈良県の境にそびえる雄峰だが、
私はこの金剛山に昭和五十七年六月七日からまる九年、一日も欠かさず今日まで連続三千二
百三十六回(四月十五日現在)の登山を続けている。
連続三千回を達成した昨年秋には、前人未到の快記録ということで住んでいる羽曳野市か
ら特別表彰をいただいた。
金剛山は、年間約百万人という、富士山に次いで日本で二番目に多い登山者を集める人気
抜群の山である。特に今年は、NHKの大河ドラマ「太平記」の舞台になっているだけに、
「太平記の村」「非理法権天」といったノボリが辻々に立ち、登山者を歓迎している。
山頂には「金剛錬成会員三百回以上登拝者名」と大書した掲示板が建ち、ズラっと名札が
並んでいる。そこには合計六千五百回も登頂した人もいる。中には一日二十四時間に十七回
も登って降りたという猛者もいる。「金剛登山大相撲“桜”場所」という番付表まであるに
ぎやかさだ。
なぜこんなに競って皆が登るのかといえば、山頂にある葛木神社の役割が大きい。もとも
と同山は役小角(えんのおづぬ)が開いた修験道発祥の地。戦前は大楠公の信仰登山の対象
になって多くの登山者がいたが、戦後は逆に登山者は激減した。ハイキングの山としてにぎ
わいを取り戻すのは昭和三十三年、金剛生駒国定公園に指定されてからだ。
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人気を決定的にしたのは同三十七年、神社が開基千三百年を記念して登山愛好家団体、金
剛錬成会を作り、登山カードの発行を始めたこと。一回登山するごとにスタンプを押し「山
に登って心身健康となれ」というわけだ。こうして金剛山に登れば登山回数が記録に残り、
みんなと比較できる。登る励みが出る山として人気が急速に高まったという次第。
ここで私の一日を紹介しよう。朝はいつも午前五時に起床。パン二枚を焼き、バターを塗
り牛乳で流し込んで腹ごしらえ。軽自動車に
九歳になる老犬のバンを乗せて六時に出発する。金剛山のふもと、千早赤阪村の登山口には三十分足らずで着く。ここから約五十分、急坂あ
り尾根道ありの登山道を登って、うっすら汗をかくころに山頂に到着。社務所で登山カード
にスタンプを押してもらう。自宅に帰るまでしめて約三時間、これで今日もヤレヤレとなる。
一口に連続三千回というが、春夏秋冬その間にはいろいろな出来事があった。台風で登山
口まで行く道路が通行止めになっていたことがある。私は車を乗り捨て、風雨の中、登山口
まで八キロを歩いた。やっと登山口に来てみると、登山道のあちこちで土砂崩れが起き、倒
木が折り重なり、道がないのも同然となっていた。何とか山頂にたどり着いた時には五時間
もたっていた。今から思うとよくもまあ登ったものだと冷や汗が出る。
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悪天候はまだいい。難関は冠婚葬祭だ。親類や近所でそれがある時「登山があるので出席
できません」とは言えない。このため、用を済ました夜、登山することになる。
ある年の十
月、懐中電灯を手に深夜の登山に及んだことがある。ところが運が悪いことに、途中で電池
が切れてしまった。闇夜だったから一歩も歩けない。もうダメだとあきらめて道に座って朝
を待つことにした。しばらくして、私と同じような夜間登山者が現れた時ほどうれしかった
ことはない。 二泊以上の旅行ができないのもつらいところだ。たとえ一泊旅行でも大変な強行軍となっ
てしまう。町内会の役員をしていた時のこと。泊まりがけでバス旅行に出掛けることになっ
た。朝、出発して翌日の夕方、帰って来るスケジュール。私は覚悟を決めた。出発前の早朝
のウシミツ時に登山、旅行から帰って来たら来たで、またすぐ山へ向かった。
私が金剛登山を思い立ったきっかけは、十年前、五十八歳まで勤めた電電公社(現
NTT)を定年退社した時だ。身体をなまらせないために近所を流れる石川の土手を毎日、
走り始めた。その時、目の前にそびえる金剛山を眺めて「そう言えば生まれてこの方、金剛
山には一度も登ったことがなかったな」と気付いた。そこで週に一度程度、まずは足ならし
のつもりで登山を始めた。
登ればだれでも名札の掲示板に目がいく。千回、二千回と登った人々の名札が大きく見え
る。そこで生来の負けず嫌いの性格が頭をもたげてきた。ただ漫然と登ってもつまらない。
どこまで連続で行けるか挑戦してみようという気持ちが強まってきた。ちょうどそのころ、
六十歳の誕生日を迎えた。「よし還暦から七十歳の古希まで、どこまでいけるか自分を試し
てみよう」と決心したわけだ。
実際、競争という刺激がなければこんなに続けられたとは到底思えない。最初のころは同
じ登山仲間とヨーイドンで何分で登れるか競争して歩いた。駆けるように登って三十分とい
うスピードで上がったこともある。
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連続千回を達成したころ、ヒタヒタと私の記録に迫るライバルがいるのを教えられた。私
より十五歳も若い。家も山に近い。ずっと有利というわけで、私が挫折すればすぐ記録が塗
り替えられるのは必至。
私はがぜん、ファイトを燃やし、自分の健康管理、体調維持にいっそう注意するようにな
った。そのうち、このライバルはカゼをひいて連続登山を断念したことを聞いた。その時は
本当に寂しかった。
「いったいどうしてそんなに金剛山が好きなんですか」と聞かれる。月並みだが、「登山
が健康法なんですよ」と答えている。大正十一年生まれの六十八歳。身長百六十三センチ、
体重五十三キロ。大正生まれの日本男子としてはごく平均的な体格だ。戦時中は歩兵として
召集を受け、中国大陸に渡って二年間、ソ連国境で警備についた。零下三十度の厳寒の中、
歩哨に立ったり行軍した経験が、今役立っているのかも知れない。
数年前から錬成会は
夜間登山は危険として認めないようになった。スタンプは朝六時から
夜八時までしか受け付けない。その外の時間帯に登っても登山カードに記録されないという
わけで、連続登山の記録を続けるのは非常に難しくなってしまった。 バンとは三百回目以降ずっと同伴登山している。雪が積もっている日などは、雪をパクパ
ク食べ、ころげ回りながら駆け上がって行く。バンとともに一日でも回数を伸ばそうという
心の張りが、私の日々の支えになっている。(まつなが・のぶお=無職)
※現在、登山回数スタンプの受付は、朝6時~夜7時まで。